グルメというと、食へのこだわりが強い人を言う。レストランも厳選のものだけに行き、普段の料理にも特別な調味料を加えたり、よく知れた食べ物も一風変わった工夫をこさえてから食したりする。
グルメの「おいしい」という感覚は、それまでの豊富な経験や多数の知識に裏打ちされた、ある程度信用できるものである。
「味がわかる」と言うけれども、あまりに高度な料理は、庶民にはわからないことも多い。知人の結婚式で食べた匠のフレンチは、決してまずくはなかったけれど、「わからん」とか「難しい」とかいうのが第一印象だった。それまでに、高級なものや複雑な味わいを経験したことがあれば、その工夫の巧緻に舌鼓を打ったのかもしれない。
最近「食育」ということが言われる。味覚は生まれながらに決まっているのではなく、幼少期の食事体験によって培われるものだから、いろいろなものを子どもに食べさせようというのである。実際に、小さいころに塩辛いものや脂っこいものばかり食べると、その味を大人になってからも好むようになり、結果的に不健康になる。また納豆とかキムチとか、クセが強いけれど、健康的な食べ物も、無理強いは逆効果だけれど、工夫して徐々に食べさせれば、将来的にこれをよく食べるようにって、よいとのこと。
わたしは辛いものが苦手だが、インドや中国の一部の地域の人達は、日常的に辛いものを食べる。辛いとも感じず平気で食べるのである。これは、小さい頃から辛いものを普通に食べてきた結果、作り上げられた味覚なのである。
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さて、結局わたしは何が言いたいのだ。
savoirの語源だ。savoirは[savwar]と発音するフランス語の単語で、「知る」を意味し英語のknowにほぼ対応する。
また、savourerは同じくフランス語で[savure]と発音し、「味わう」を意味する。
sav-という要素があるから、調べてみると、やはり語源が一緒である。
savoirのもとになったラテン語単語sapēreは「味がある」という意味だった。味が感じられることが、発話主体の味覚的感覚の鋭さに広がり、最終的に「知る」という意味が生じた⋯。と、考えたが、ある説明では、ホモサピエンスのサピエンスであるsapiensが影響して、知っているという意があらわれたとある。
さらに遡ると、インド・ヨーロッパ祖語のsap-という語根にいたり、これは「感じる」を意味したと推定されている。そして、分岐の枝をゲルマン方面に流すと、ドイツ語でジュースを意味するSaft[zaft]もここから来ているらしい。
savoirとsavourerが、語源を同じくすることはわかった。だからといって、その意味拡大の過程が、味覚の鋭さやグルメの度合いから、物をよく知っている事実へと転用されたと考えるのは、空想にとどめておこう。
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味がわかるという表現が語るように、味覚の識別能力が、知識や経験やに由来するというのは、とても納得できる。
味覚の鋭さのみならず、物事を楽しいと思えるかどうかの感覚も、知識と経験によることさえある。話を芸術にまで広げれば、「作品を味わう」という表現がある。作品を味わう、すなわち、その作品を喜びとともに鑑賞するには、一定の「知っている」が必要である。
たとえば、わたしは絵画に明るくないから、大きな美術館の常設展にあるような古典絵画や、シュルレアリスムの抽象画などを、楽しむことができない。(抽象画の一部には本能に訴える何かがあるのも事実だけれど)
また旅行をするときなども、ある程度行き先の歴史や名産を知ってから行くと、何も考えずにここ最近できた見栄えがいいだけの観光スポットに行くよりは、より豊かな感興を持って観光を楽しむことができる。(めんどうだから毎回事前調査をするわけではないけれど)
つまり、何かをsavourerするには、その背景をsavoirしていないといけないようだ。
savoirとsavourerが元をたどれば同じだったということは、多くを語っているようである。