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黒はあの色である。といっても、それぞれの感覚は異なるから、わたしの言う黒を誰もが思い浮かべるわけではない。が、あの黒、全てを呑み込む色。絵具で言えば、色んな色を混ぜる試行錯誤の中、結局できてしまうあの色である。そしてこの語のアントニム(反意語)は白。雪や牛乳の、あの色である。
ところで、黒を意味する英単語はもちろん、blackである。
ところが、韓国のノーベル賞作家ハン・ガン氏の『すべての、白いものたちの』という作品に、このような一節を見つけた。
何年も過ぎた後、生命–再生—復活を意味するその花咲く木の下を通り過ぎながら、彼女は思った。あのとき自分たちはなぜ、白木蓮を選んだのだろう? 白い花は生命につながっている? それとも死? インドヨーロッパ語では、空白blankと白blanc、黒blackと炎flameはみな同じ語源を持つということを、彼女は読んだ。闇を抱いて燃え上がる、がらんどうの、白い、炎たち、——三月につかの間咲いて散る二本の白木蓮は、それなのだろうか。
つかの間咲くハクモクレンに、白、消滅、炎、というイメージを重ねたこの美しい一段落では、blank、blanc、black、flameという四つの単語がみな同じ起源をもつと書かれている。
とくに目を引くのは、blackとblancの二つ。blackは英語の「黒」だが、blancはフランス語の「白」である。
反対の意味を持つ「黒」と「白」が、インドヨーロッパ諸語においては、同じ起源をもつとは面白い。
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四つの単語をそれぞれ個別に見てみる。
blackには、blという要素が見える。
blankは、見間違えそうだが、blackの四文字目がcからnになっただけ。辞書の第一義は「空白」。日本語でも「ブランク」という言葉があり、求人広告に見る「ブランクありOK!」とか、数年来にスポーツを再開するときの「ブランクが〇〇年ありますが」、というときのブランクである。また「タブラ・ラサ」の英語は’blank slate’である。
blancはフランス語の白で、発音は「ブラン」。フランス語は語末の子音を読まないことが多いが、語末の文字は無意味にあるわけではなく、かつて発音されていた名残である。つまりblancの場合、昔は「ブランク」と発音されていたのだろう。
上の三つにはblがあるが、flameはflであって、仲間はずれに見える。しかし、時代をさかのぼると、flはblだっと推定されている。bとfは音声学的にはくちびるで作る「唇音」に分類され、類似した音である。しばしば、類似した音は交替が起きる。つまり、fがbだっと考えるのは自然なのである。
四つの単語はいずれもblという要素でつながっているのである。
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ハン・ガン氏の引用で言われているように、つかの間のきらめきというのがこれらの単語を統合する考え方である。
ハクモクレンは、それ自体白い。しかし、多くの花がそうであるように、その開花はみじかく、あっというまに枯れて散ってしまう。ハン・ガン氏は死という言葉を用いているが、抽象のカテゴリーを上げれば、終わりということになるだろう。
つまり、ハクモクレンの開花は、十全にその白さを発露してつかの間、消滅し闇に消える。
インドヨーロッパ諸語(ショゴ)は全て単一の言語から来たとされる。その単一言語はインドヨーロッパ祖語(ソゴ)と言われるものの、その言語で書かれた古文書資料がないために、全ては推定であることは留意せねばならない。
そのインドヨーロッパ祖語において、blという要素は、燃えるという意味をもっていたと推測されている。火は燃えるときに輝き、しばしば短い時間で消えて、あとには黒い燃え殻が残る。
こうすると、「黒」と「白」が、同じ根っこを持つということにもうなずける。火が燃える瞬間を切り取れば「白」、燃え終わった結果を切り取れば「黒」なのだ。
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つきなみではあるけれど、「光」と「影」が表裏一体であることをはっきりと表している。
ハン・ガン氏のように、言語感覚のするどい人は、この一見相反する事実が見方を変えて統合されることに、一種の詩情を喚起されるのかもしれない。
日本語の「かげ」は、かつて「光」を意味していた。
反対というのは実は近い関係を持つことなのかもしれない。
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グルメというと、食へのこだわりが強い人を言う。レストランも厳選のものだけに行き、普段の料理にも特別な調味料を加えたり、よく知れた食べ物も一風変わった工夫をこさえてから食したりする。
グルメの「おいしい」という感覚は、それまでの豊富な経験や多数の知識に裏打ちされた、ある程度信用できるものである。
「味がわかる」と言うけれども、あまりに高度な料理は、庶民にはわからないことも多い。知人の結婚式で食べた匠のフレンチは、決してまずくはなかったけれど、「わからん」とか「難しい」とかいうのが第一印象だった。それまでに、高級なものや複雑な味わいを経験したことがあれば、その工夫の巧緻に舌鼓を打ったのかもしれない。
最近「食育」ということが言われる。味覚は生まれながらに決まっているのではなく、幼少期の食事体験によって培われるものだから、いろいろなものを子どもに食べさせようというのである。実際に、小さいころに塩辛いものや脂っこいものばかり食べると、その味を大人になってからも好むようになり、結果的に不健康になる。また納豆とかキムチとか、クセが強いけれど、健康的な食べ物も、無理強いは逆効果だけれど、工夫して徐々に食べさせれば、将来的にこれをよく食べるようにって、よいとのこと。
わたしは辛いものが苦手だが、インドや中国の一部の地域の人達は、日常的に辛いものを食べる。辛いとも感じず平気で食べるのである。これは、小さい頃から辛いものを普通に食べてきた結果、作り上げられた味覚なのである。
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さて、結局わたしは何が言いたいのだ。
savoirの語源だ。savoirは[savwar]と発音するフランス語の単語で、「知る」を意味し英語のknowにほぼ対応する。
また、savourerは同じくフランス語で[savure]と発音し、「味わう」を意味する。
sav-という要素があるから、調べてみると、やはり語源が一緒である。
savoirのもとになったラテン語単語sapēreは「味がある」という意味だった。味が感じられることが、発話主体の味覚的感覚の鋭さに広がり、最終的に「知る」という意味が生じた⋯。と、考えたが、ある説明では、ホモサピエンスのサピエンスであるsapiensが影響して、知っているという意があらわれたとある。
さらに遡ると、インド・ヨーロッパ祖語のsap-という語根にいたり、これは「感じる」を意味したと推定されている。そして、分岐の枝をゲルマン方面に流すと、ドイツ語でジュースを意味するSaft[zaft]もここから来ているらしい。
savoirとsavourerが、語源を同じくすることはわかった。だからといって、その意味拡大の過程が、味覚の鋭さやグルメの度合いから、物をよく知っている事実へと転用されたと考えるのは、空想にとどめておこう。
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味がわかるという表現が語るように、味覚の識別能力が、知識や経験やに由来するというのは、とても納得できる。
味覚の鋭さのみならず、物事を楽しいと思えるかどうかの感覚も、知識と経験によることさえある。話を芸術にまで広げれば、「作品を味わう」という表現がある。作品を味わう、すなわち、その作品を喜びとともに鑑賞するには、一定の「知っている」が必要である。
たとえば、わたしは絵画に明るくないから、大きな美術館の常設展にあるような古典絵画や、シュルレアリスムの抽象画などを、楽しむことができない。(抽象画の一部には本能に訴える何かがあるのも事実だけれど)
また旅行をするときなども、ある程度行き先の歴史や名産を知ってから行くと、何も考えずにここ最近できた見栄えがいいだけの観光スポットに行くよりは、より豊かな感興を持って観光を楽しむことができる。(めんどうだから毎回事前調査をするわけではないけれど)
つまり、何かをsavourerするには、その背景をsavoirしていないといけないようだ。
savoirとsavourerが元をたどれば同じだったということは、多くを語っているようである。
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語源
色々な言語の語源についての探求です