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わたしが小さかった頃は、「蚊に刺された」を「カニに刺された」と言って、親にツッコまれることがよくあった。今、「かにさされた」を変換しようとして「蟹刺された」が予測変換にでてきたのも面白い。
今朝、テレビでニュースを見ていたら、蚊の特集がやっていた。蚊も夏バテをするらしい。夏バテというと、なんだか軽い感じがするけれど、ようは暑さの度が過ぎて、身体が危険信号を発するのである。
蚊の夏バテくらいになると、もはや生命活動の危険信号らしい。テレビでは、35度の小箱に蚊を何匹も入れて、手を突っ込むという実験をしていたが、手を突っ込んだ人は全く刺されていなかった。暑すぎると蚊も食欲をなくして、血を吸わなくなるらしい。そして、一部の個体は死んでしまった。暑すぎると蚊は死ぬようである。
ちかごろ、真夏になると蚊に刺されないということを感じていたのだが、やはりそうだったのかと合点がいった。暑すぎてもはや蚊の活動する気温ではなかったのだと。
反対に、夏のはじめとおわり、つまり春のおわりと秋のはじめは、蚊にさされてかゆい思いをすることが多いと実感していた。やはり、蚊も人間と同じで、春と秋の丁度いい陽気を好むのだろう。
地球がすっかり熱くなって、春と秋が消え始めているけれども、人間にっとても蚊にとっても生きづらい世の中になって困りますねえ。
カニに刺された
さて、「カニに刺された」の話にもどる。ある程度の大きさのカニに刺されたら、死にそうである。
それはそうと、どうして、「蚊に」を「カニに」といいたくなるのか。ひとつは、名詞の「か」と助詞の「に」が連続して、音が「かに」になって、「かに」と言い始めたはいいが、途中でなんだか「かに」が一つの名詞のように思え、名詞がきたんだからあとには助詞が来ずには収まりが悪く、「に」をつけてしまうのだろう。
そして、もうひとつは、「か」という名詞が一音であるせいで、なんだかいいたりないからもう一つ音をつけてしまうというのが原因だろう。
一拍名詞
やっと本題に入ったようだ。一拍名詞の話をしたかったのだ。「か」のように文字が一つ(正確にはモーラが一拍)の名詞を一拍名詞という。なんのことはない文字通りである。
五十音を「あ」から順番に言ってみれば、一つの音だけで出来ている名詞が総ざらいできる。いくつか例をあげれば、「胃」「絵」「木」「毛」「酢」「血」「手」「歯」「火」、、、。馴染みが薄いものだと、「唖」「鵜」 津」「麩」「帆」、、。などなど。
ある人が言うには、古語には一拍名詞が多いらしい。ほんとかなあ、とは思うのだけれど、古語辞典を開くと、今では通じないような一拍名詞がいくつか見つかる。
たとえば、「あ」は足の意味にもなれば、「わたし」という一人称にもなった。これは、平安時代よりも前の時代(上代)が主らしい。たしかに、一人称の意味で「わ」といっている東北の方言を聞いたことがある。
古語辞典をパラパラめくってみたが、あまりいい例が見つからない。もちろん一拍名詞はあるけれど、今でも通じるようなものが多く面白くない。おそらく、今も昔も一拍名詞はそれなりにあるのだろう。
一拍名詞は言い足りない
一拍名詞はなんだか言い足りないということを言った。さきほど例を挙げた中に、「酢」があったが、これは個人的に少し言いづらい。頭に「お」を付けて、「お酢」といったほうが言いやすい。また「麩」も単独では言いづらい。これもやはり「お麩」といったほうが言いやすい。
[目」に対して「おめめ」という言葉があるけれど、これはなんで「め」が二回出てくるのか…わからない。「おめ」だと言った感じがしない。まさか、「カニに」タイプのやつか!足りないからもう一個言いたくなったのか!実際のところはわからない。
「お」をつける例が出てきたが、他の言葉をつけるものもある。「扉(とびら)」というのは分解してみれば、「戸」+「びら」で、「戸」だけでドアの意味なのだが、うしろにあるのは「ひらひら」とか「びらびら」とかいう擬態語と同じやつで、ようはバタバタ動く「戸」である。というのは適当で、「びら」の意味は正確にはわかっていない。日本国語大辞典を見ると、『古事記』に「トヒラ」というのが既に出てくるらしいが、語源説もいくつ書かれており、「ひら」は平たいの意味という説もある。
例に挙げた馴染みのない「唖」や「鵜」や「帆」も、単体で使われるよりは、他の単語と一緒になって使われるのが普通で、「聾唖」、「鵜飼い」、「帆船」という方が、耳馴染みがある。
何かにくっつけて使われるという点では、「露出形」と「被覆形」という話があって、たとえば「手」は「て」と読むけれど、「手綱」のときは「た」「づな」とよんで、「た」になる。「て」の方を「露出形」、「た」のほうを「被覆形」と言って、簡単に言えば「そのまま使う形」と「何かと一緒のときに使う形」なのだけれど、一種の屈折語の格変化のように見る向きもある。
終
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首相の辞任表明のニュースがやっていた。
テレビの長方形の画面の左上に、「石破おろし」とあった。
「大根おろし」が頭に浮かんで、「石破おろし」とは何か新手の料理かと勘違いした…
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というのはでたらめで、タイトルの「石破おろしと大根おろし」は単なるダジャレ。だけれど、あながち嘘でもなくて、「石破おろし」という文字列を見て、大根おろしの映像が0.2秒くらいよぎったのは事実。
きっかけはくだらないけれど、「大根おろし」という言葉を今一度考え直すと、なぜ「おろし」という言葉が使われているのか気になった。
よく考えてみると、「下ろす」という言葉から来ているんだろう。
こういう基本的な語彙は、色々な意味で用いられて面白い。逆に言えば、外国語学習を難しくする原因でもある。が、母語であれば簡単に同じ単語を色々な意味で使いこなせるから不思議である。むしろ日本語を使いこなして、外国人を翻弄してやろう。
「下ろす」はつまり、何か物を下方へ移動させる意味の動詞で、「おろし」はその連用形である。
大きめの国語辞典をひらけば、何か書いてあるんだろうけれど、手元にないから想像する。「おろす」をもう少し丁寧にいうと、「擦り下ろす」ということになるだろう。本義はむしろ消去された「擦る」のほうで、物を何か別のざらついた物体に接触させ前後に動かすあの動作である。
適当なサイズに切った大根を、おろし金の上に付けてスリスリすれば、そぼろ状というのか、繊維と水分が絶妙に混じり合ったあの物体、「大根おろし」ができあがる。擦って、下に落ちるから、擦り下ろすというのだろう。人参を擦った「おろし」を「紅葉おろし」というけれど、なんとも洒落た言葉である。どっかのハンバーグ屋で紅葉おろしとぽんずが出てきたけど、あれはうまかったなあ。
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中西進に『ひらがなで読めばわかる日本語』という本があるけれど、これは漢字で書かれた言葉をひらがなにしてみると、その意味の本質がよくわかるという趣旨のもの。今回はある意味反対で、「おろし」を漢字にして「下ろし」とすると、元の意味がわかってくる。
これが起こる理由は、まず多義語があって、漢字によってその意味をかき分けていることにある。漢字によるかき分けは便利だけれど、もとの言葉が実は同じであることを隠してしまう作用もある。
「おろす」というのもやはり多義語である。
あまりよくない意味だけれど、「おろすの?」「おろしたの?」という風に、主語や目的語無しで使われると、堕胎を表すこともある。この用法は平安時代からあるらしい。
「卸」と書けば、急に商業の匂いがしてくる。本来は棚に閉まってあったものを、使うために下におろす「棚卸し」から来ているのだろう。つまり「棚下ろし」と書いたほうがもとの意味はわかりやすい。似た使い方に、靴や服を「おろす」というものがある。これは新しい衣類を使い始める際に使われるが、やはり、閉まってあった場所から下におろすというのが原義である。
「颪」という見慣れない漢字は「おろし」と読む。これは山から「吹き下ろす」風を言う。つまり、「吹く」という要素がなくなって、「おろし」になっている。これは、「擦り下ろす」から「おろす」に変わる場合と似ている。だいたいは「〇〇おろし」と言って、〇〇の部分に山や山脈の名前が来る。原理はよくわからないけれど、大きな山を下る冬の冷たい強風である。「赤城おろし」というのを聞いたことがあるが、群馬にある赤城山塊から吹き下ろす冷たい風のことである。
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元に戻って、「石破おろし」だが、これは何のことはない、高いところから下ろすということ。物理的な意味ではなく、比喩的に社会的な地位の高低移動に転用されている。古語辞典を引いても「おろす」の項には、「退位させる」という意味があり、今回の用例はこれが近い。
終
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日本語
日本語のああそうだったのかを書いています