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太宰治『津軽』

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tugaru

太宰治『津軽』

本屋に寄って、新潮文庫の並びを物色し、黒い背表紙の太宰の本がたくさんあって、そこに『津軽』という題名が見えた。

私は田舎出身の作家が自身の故郷について言及している文章が好物である。そこにその人の全てがあるような気がするというのか。やはり、幼少期から青年時代を長らく過ごした場所だから、その人の原点が集約されているのではないか、何か特殊な土着性が、その人の世の見方、ひいては、作品のあり方に影響してはいまいかと想像を巡らすのが楽しいからである。

別に当の作家にとってはそういうわけでもないかもしれない。単にわたし自身の問題かもしれない。わたしは東京の何の特徴もない、ただ人が住んでるだけみたいなところで育ったから、なんというのか誇るべき故郷の特殊性のようなものを持たない。ながい休みに、帰省しますと言って、遠い故郷へ帰っていく人たちへが、なんとくなくうらやましく見えるのに似ているのかもしれない。

ときは1944年、作者は出版社に津軽風土記を書かないかと依頼され、およそ3週間かけて津軽半島を一周し、そのときの調査をまとめた。これが、『津軽』である。

1944年と聞くと、世は未だ戦争のただ中で、そんなときにも作家は悠々と旅行ができたと考えると、奇妙な感じがする。むかし、大正から正和初期の作家たちは、どうやって戦争を切り抜けたのかと思って調べたことがある。たいてい、作家というのは体が虚弱で、兵役の身体検査に落ちることがよくある。また一部には、精神病をのふりをするものもあった。ふりをせずとも、どこかで作家はみんな鬱とかいう題名の本を見た気がするが、元来正気ならば作家などやろうと思わないのだから、ナチュラルに異常だと判断されたのかもしれない。

津軽出身の作家が他にいないかと調べてみると、寺山修司と葛西善蔵がいた。なんだか、津軽という場所が偉いところに思えてきた。そもそも、津軽とは青森のどのあたりを指すのだろうか。わたしは勝手に、青森の端っこのほんの小さい部分だと思っていたけれど、非常にざっくりと言えば、青森の左半分はすべて津軽地方だそうである。弘前市というのは聞いたことがあったが、これも津軽地方に含まれる。というより、津軽地方の第一都市である。

寺山と葛西が生まれたのはこの弘前市だが、太宰が生まれたのは金木という町である。*津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうに気取った町*であるらしい。当時は都会ふうだったようだが、「オラこんな村いやだ」の吉幾三の出身地でもある。時代の波に遅れてしまって、20世紀も半ばを過ぎたときには、こんな村いやだとなるくらいには、何もない田舎になってしまったのだろう。

『津軽』は序文とそれに続く全五章の本編から成る。序文は津軽地方のことを知らない読者でも、土地の雰囲気や地方のあり方をおおまかにうかがい知ることのできる、親切な導入部である。そこでは、青森市、五所川原、弘前、金木、大鰐、浅虫といった、著者が青年時代までに過ごしたあるいは訪れたことのある町に関して、自身の思い出が語られている。読者はその思い出話から各町の位置関係や特徴をありありと思い浮かべることができる。

後に続く5章は、一様な内容ではない。基本は著者が出版社に頼まれた津軽風土記である。旅先での出来事が時系列で語られることを期待しても、そう綺麗に並んでいるわけではない。旅行案内や歴史書でもあたったのか、訪れた地の観光名所や歴史などが随所に挿入されたり。かと思ったら旅先の懐かしい知人とのユーモラスな話が始まったり。いつのまにか、重厚な文体で過去の事績の記述がはじまったりする。

新潮文庫の解説を書いている批評家の亀井勝一郎氏は、太宰の全作品の中で一つ挙げよと言われれば、この作品を挙げると述べている。そう言うのも無理はない。全体を通して伺えるのは、全盛期の作家の抑制された筆致である。

1940年代のこの時期太宰は非常に多作だった。短編として名高い『女生徒』『富嶽百景』『走れメロス』などは、この時期に書かれているし、作家としても挑戦的かつ意欲的な作業に取り掛かっていて、翻案物の『新ハムレット』や歴史長編小説『右大臣実朝』もやはり同じ時期である。一般に言われることだが、この時代、太宰は精神的に最も安定していた。戦後の暗澹たる雰囲気に溢れた作風とは異なり、つねにユーモラスと機知に溢れ、落ち着いた書きぶりで淡淡と物語が進んでいくのが、この時期に書かれた作品の特徴である。

『津軽』もやはりその系譜にある。

続く

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